「生きているんだから」
「死ねばいいのに」
小さな声が聞こえた。雑談するクラスメイトの声に交じって、耳に届くか届かないかの音で。お弁当箱を鞄から取り出した私はふっと顔を上げた。
教室は昼休みのために多くの生徒で賑わっている。このクラスはグループの中心人物が多く、他クラスからも人が集まりやすい。昼休みにごった返すのは仕方がないのだろう。
「死ねばいいのに」
今度は先ほどよりもはっきりと、明確な言葉が聞こえる。私にはそれが自分に向けられていることを知っている。被害妄想なんかではなく、確実にそれは背後から私に向けられた言葉だった。
心臓が高く脈打つ。背中に嫌な汗が噴き出す感覚がある。
「邪魔なんだよねホント。この教室せまいのにさあ」
その声には聞き覚えがあった。
振り向くと声の主はあら、と笑った。
「なに? どうかした?」
白々しい顔で私を上から下まで舐め回すように見つめる。周りでは彼女の腰巾着が同じようににやにやと私を見ていた。
「別に」
私は根暗な感じにならないようになるだけ明るいトーンで、でも最低限の台詞を吐いて立ち上がった。
「ここで食べないの?」
彼女がひどく歪んだ笑みで訊くのには私は答えない。お弁当箱を持ってふらふらと教室を出る。出来るだけ自然に、焦る気持ちを抑えて。
「死ねばいいのに」
楽しげな彼女の声に、私は心の中で返事をする。
大丈夫だ、と。
あなたの願いは必ず叶う。何時間後か何日後か、あるいは何年後かも分からないけれど。私は死ぬ。だから大丈夫。
あなたが死ねばいいのにと望まなくなったって、生きている人間は、いつか死ぬんだから。
ネガティブな気持ちに自己嫌悪を感じながら、私は騒がしい教室の戸を閉めた。
*
他のクラスに行く当てもないので、校舎横の非常階段の踊り場でお弁当を食べようと決める。昼休み、教室に居られなくなることは多いので、私は一人静かにご飯を食べられる場所を知っている。
高校入学から半年とちょっと、軽いいじめが始まったのは夏休み明けだったのでほぼ二ヶ月が経つ。いい加減誰にも見られない逃げ場くらいは見つけておかないと日々をやり過ごすのは難しい。
今のところ大して酷い嫌がらせなどはなく、パシリなどにさせられる訳でもないので単純に居心地が悪い程度で済んでいるのは、随分幸運だと思う。まあ人並みには精神的タフさはあるらしく、除け者にされたり死ねと言われるくらいなら受け流せる。
怖いのはこの苛めが、先ほどの彼女を中心に酷くなっていくことだろう。だから私はできるだけ彼女達を刺激しないよう、心がけている。反抗をしたり目に見えて凹んでいったりしなければ、彼女達もその内に飽きる。苛めても楽しくない相手にいつまでも構っているほど、暇人でもあるまい。
ふらふらとした足取りで私は校舎横の扉を開ける。
「あ」
と、いつもの私の場所には先客が居た。私は驚いて間抜けな声を出す。
「お? びびったぁ、誰か先生かと思った」
その男子生徒は煙草を吹かしながら、目を丸くして私を見ていた。見覚えがある顔だった。何度か私の教室で他の男子生徒達と一緒に騒ぎ立てていた一人だったと思う。
「なに、飯? ここで食うの?」
「あ、いえ、ごめんなさい」
私が扉を閉めようとすると、彼はすっと踊り場の隅に体を動かす。
「別にここで食えばいいじゃん、いつもあんたが使ってる場所じゃねえの?」
「え、なんで」
「これ落ちてたし」
彼はすっと見覚えのあるシュシュを差し出す。
「これ、私の」
私が受け取ると、彼はそりゃそうだ、とかつかつ笑った。
最近見ないと思ったらここに落としていたらしい。
「こんなとこ来る奴他にあんま居ねえだろ。鍵閉まってると思われてるし、寒いからわざわざ外には出たがらないし」
「うん、私以外の人は、初めて見る」
「あのさ、それ見つけた代わりったらアレかもだけど、これ黙っといてくれねえ?」
これ、というのは煙草の事だろう。私はこくり、と頷いた。彼はサンキューと嬉しそうに笑い、煙草を咥える。
「あ、飯食いながら煙草ってのも気分悪いか? 消す?」
ふと気づいたように彼が言うので私は首を振る。
「馴れてるから、大丈夫」
煙草は中学時代付き合っていた年上の彼氏が吸っていたこともあり、割と平気だ。自分では吸いたいと思わないけれど。
「じゃ、俺のことはお構いなく、お昼をどうぞ」
「はあ、どうも」
私は会釈しながら下りの階段に足を下ろす形で踊り場に座る。お弁当箱を開け、もそもそとご飯をおかずを口に運ぶ。近くに誰かがいる所為か、気持ちが落ち着かず味がわからない。
「なあ」
「はい?」
急に話しかけられたので、少し上擦った声が出てしまう。
「んな驚かなくても」彼は苦笑交じりに煙を吹かす。「あんたさ、いじめられてるよな」
少しどきりとした。箸を握る力が、少し強くなる。
「あ、別に俺は何もしないからな? 別になんか意図があるわけじゃないから」こっちの気持ちを察してくれたのか、彼は付け足すように言った。「大変だなと思っただけ。女の苛めとかって陰湿なんだろ」
彼の口調には本当に悪意がなくて、私は少し安心する。
「別に、まだそこまでひどくなって、ないから。私より酷い子は他に居ると思うし」
「ふうん」
興味無さそうに彼は短くなった煙草を携帯灰皿に入れる。
「ま、俺も小学校とかで苛められたことあるから、あんたのことちょっと気になってたんだわ。でも皆の前では喋りにくいからさあ」
私は驚いて目を丸くする。彼のようなタイプが苛められっ子というのは少し意外だった。けれどその飄々とした態度が逆に生々しく感じられ、なんとなく納得する。
「今日話せてよかった」彼はまじめな顔で私を見る。「ここ、俺も使っていいか。あんたと、もっと喋ってみたいしさ」
「私は、全然、いいよ」
私があたふたしながら答えると、彼はまたサンキューと嬉しそうに笑った。
周りに馴染めない私なんかに興味を持ってくれることが、上手く飲み込めず私は彼の笑顔をぼんやりと眺める。
と、彼の携帯が大きな着信音を鳴らした。彼は携帯を開いてしばらく画面を眺めてから立ち上がった。
「友達呼んでるから、今日はもう行くわ」
うん、と私が頷くと、彼はにっと笑顔になった。
「笑ってるほうが、可愛いぞ」
そう言い残して、彼は扉を閉めた。
ばたん、というその音で、私は自分がいつのまにか笑顔になっているのに気付く。なんだか急に恥ずかしくなって顔が紅潮してしまうのがはっきり分かった。なんだかお弁当を食べる気にもならず、蓋を閉めた。ぼんやりと当たる秋風が火照ってしまった顔を程よく冷ます。
高校入学以後、感じてきた不安感とは違う胸の昂りに私は少し期待してしまう。
だって私は半年の間、孤独だった。たった一人でいいから、つまらない話をしてくれる相手を求めていた。
だから、こんなことがあって、あんなことを言われて期待しないほうがおかしい。
なんだか自分は自分が思っていたより、寂しがりで、乙女だったみたいだ。自分の顔から笑みが消えていくのが分かる。自己嫌悪で、まとわりつく温い幸せを振り払うようにふるふると頭を振った。
どんなに期待したって結局簡単には日々は変わらない。私は毎日「死ねばいいのに」と言われるだろうし、もしかしたらもっと酷い苛めにあうかも知れない。うまく彼女たちをあしらえても、結局私は一人ぼっちで、孤独のままだ。それが現実なのは分かっている。
でも、それでも。
一週間に一回くらい、誰かとくだらない冗談を言いながら一緒にご飯を食べる程度でいいから。
それくらいの安心感でいいから。
泣きそうになりながら、私はちょっとだけ未来を期待する。
死ねばいいと思われている人間にだって、それくらい許される。
きっと、そう思う。
私だって生きているんだから。
10/01/09 もこ
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