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「愛してる」


「愛してる」
びっくりするくらい陳腐なセリフを、びっくりするくらい真っ直ぐに彼は言った。
馬鹿みたいに単純な言葉だなあと思うのだけれど、彼の言葉にはそういう俗っぽさを感じない。シンプルな言葉を、俗っぽさや馬鹿っぽくなさを感じさせることないのは一つの才能だと思う。
「ありがとう」
返す言葉に力がなかったのは、もう終りが近いからだ。もう充分に覚悟はしてきた。大丈夫。泣いたりはしない。だってこんなにも握った手が暖かいんだから。
「ゆっくり、おやすみ」
「うん」
その優しい声のお陰で心は動じなかった。瞳が閉じていく。
「おやすみなさい」
最後の言葉は安らかで、そこに死があるなんて、感じさせない。
「ああ」
しばらくの沈黙の後、私は動かなくなった手を離し呟いた。
「なんだ、実感なんて全然湧かないや」
彼女は安らかに、覚めることのない眠りについていた。けれどそれが私には全然感じられない。だってたった数分前にはまだここにあったものが、永遠に届かない場所にあるだなんてあり得ない。
それでも彼女は永遠に目を覚ますことはない。それが実感できずに、私はぼんやりと彼女を見ていた。
「そうだね」
彼は少し遅れて私の言葉に返事をする。
「今はまだ、きっと分からない。それでも過ぎていく日常の中で、自分が大切なものを失ったという実感をしていくんだ。悲しいけれど、人というのはその時の出来事をすぐには清算できないから」
彼はとつとつと語りながら、彼女の手を握り続けていた。
「本当は大声で泣いて、叫んで、たくさん悲しんで、それから気持ちを切り替えられたらいいのだけど。僕はそういうことがうまくできないんだね、きっと。ゆっくり失ったことを理解して、ゆっくり悲しんで、ゆっくりと慣れていくしかないんだろう」
「辛くは、ない?」
「そうだね。きっと辛い。けれど、大丈夫」彼はつぶやくように、けれどはっきりと言う。「僕は今まで彼女で生きてきた。楽しくて慌ただしくて、一瞬の日々だったけれど、それを思い出せる限り、僕は大丈夫だよ」
彼はゆっくりとそう言って、強く握っていた手を離した。
そうやって少しずつ、彼は彼女と別れていくことに慣れていこうとしているのだろう。
「ねえ、おじいちゃん」
彼は私に振り向く。その表情はびっくりするくらい穏やかで、私は泣きそうになった。
「おばあちゃんのこと、本当に好きだったんだね」
彼はああ、と呟き、深い皺を伸ばしながら微笑む。そして再び彼女に向き直り、言う。
「愛している」
びっくりするくらい陳腐なセリフを、びっくりするくらい優しい声で、彼は言った。


10/02/02  もこ
 

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