「哲学と夕飯、カレーライス」
「死ぬってなんだ?」
うちのマンションの屋上は簡単に柵を越えられる。不用心にも程があるのだが、柵の一部が何故か何本か抜けているのだ。ついでにマンションは六階建て、流石にここから落ちれば死ねるだろうってくらいの高さはある。
「死ぬってなんだ?」
で、そんな柵の向こう側に彼は居る。一歩後ろに下がるだけで一瞬にして私の視界から消える位置で、平然とした顔をして立っている。
「実感なんかわかねえよ。死ぬってなんだ?」
私は黙っている。多分何を言ったって聞こえない。
「なんで死ぬんだ?」
彼はぼんやりとした目で、はっきりと私に尋ねる。いや、それは私に対する言葉じゃない。彼には今、私なんて見えていない。彼は今自分自身と対峙している。これは彼の哲学。
「だって、俺のじいちゃんだってばあちゃんだって、親父だってオフクロだって生きてんだ。なのにみんな死ぬ。なんでだ?」
私はじっと彼を見る。少し短く切り過ぎた髪が夕方の風に揺れる。もう冬も近い。口から洩れる息が白い。
「よくわかんねえ。俺が生きて死んで、それでどうなるんだ?」
マフラーがぱたぱたと風に揺れる。
「そもそも、生きてるってのがなんなんだ。結局、俺はどうしたいんだ」
彼は今にも消え入りそうだった。彼は真面目だ。だからこそ自分自身に真っ直ぐに疑問を抱くし、そこに迷い、苦しむ。なんて人間らしいんだ、と私は思う。
私みたいにひねくれたり、適当に誤魔化したりしない、その強さが私は愛しいなあと思う。
「ねえー」
吹いてくる風に負けぬように私は叫ぶ。
そこでやっと、彼が私を見た。ぱちくりと、なんだ居たのか、みたいな目をする。
「たくさん考えて、分からないことはあるんだよー」
この世界は答えが出ないことの方が多分、多い。そういうものだ。
「だからさー、ゆっくり生きてみてもさー、いいじゃんさー」
彼の真っ直ぐな視線に私は微笑む。
「分かんないからって、死のうとすることなんかないよ。一緒に生きよう。生きて考えよう」
それでいい。迷いながら、考えながら、悩みながら、生きていけばいい。みんな死ぬのなら、そうした方がずっといい。
「そんでもって、カレーライス、食べよう」
私の言葉に、彼がすっと安心したように肩を下ろした。
「そういう、いいな」
ゆっくりと柵の壊れた部分をくぐり抜け、それから私の手を取る。
「辛口だと死んじゃうから」
「甘口、ね」
冷たい風が吹く。どこからか、美味しそうなカレーの匂いが漂った。
哲学の時間は終わり、夕飯の時間が始まる。
10/02/09 もこ
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